秋田県 角館町観光協会

 
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 1.樺細工のおこり

 2.樺細工の材料と製法

 3.樺細工と藩政時代
   4.樺細工と文明開化

 5.樺細工と昭和そして現代
 
  ■ 1.樺細工のおこり  
 

(左 経得明夫・作 「無地皮亀甲貼硯箱」 / 右 荒川慶一・作 「あめ皮小箱」)
(左 経徳明夫・作 「無地皮亀甲貼硯箱」 / 右 荒川慶一・作 「あめ皮小箱」)

 北秋田市(旧合川町)鎌沢地区の熊野神社別当、藤原宥秀という人が、明治3年3月の日付けで、樺細工の由来を書き残しています。

 それによれば「私の先祖は修験だが、金弥という人の代に、阿仁樺と称して一子相伝だった樺細工の技法を外に出した」と記されています。

 この記録や角館に伝わる樺細工の由来などから考えると、阿仁、またはその近くに生活していた一部の修験(山伏ともいう)に伝承されてきた、桜の樹皮を加工して日常の道具を造る技法が外に伝えられたと思われます。この時期、この技法を伝授したのは御所野家とされていますが、鎌沢の熊野神社との関係はよく分かっていません。

 時期的にはおそらく江戸時代の中期でしょうか。1780年(天明年中)ごろ藤村彦六という角館・佐竹北家の武士が「阿仁に出向いて樺細工の技法を習った」と角館では伝えられていますが、直接、武士の身分で阿仁まで技術習得に出向いたのかどうかはよく分かっていません。

 と同時に、門脇権六という人がその仲介をした、とも伝えられていることから、修験の金弥の代に阿仁から技法が流出し、ひとつは阿仁鉱山との関わりが大きかった角館に伝えられ、もうひとつのルートとして、隣接する森吉から大館方面にも技法がもたらされたと考えられそうです。現在、旧合川町の鎌沢、旧田代町の岩瀬、それに大館市にも樺細工が残っているのは、そのような伝播の経路を示すものと思われます。

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  ■ 2.樺細工の材料と製法  
 

(樺細工制作風景・樺細工伝承館にて 制作者・伝統工芸士 三浦勇さん)
(樺細工制作風景・樺細工伝承館にて 制作者・伝統工芸士 三浦勇さん)

 樺細工の原材料は桜の樹皮です。樹皮を幹から丁寧に剥がし、それをほぼ1年ほど陰干しにして水分を抜いたものを使います。

 桜はヤマザクラのみ。ウワミゾザクラなども使えますが、ヤマザクラが細工には適しています。桜の樹齢や太さなどは関係ありませんが、成長し過ぎて樹皮がひび割れたりしたものは、当然ながら使えません。

 この樹皮の表面のザラザラした部分を「包丁」で丁寧にこそぎ落とし滑らかにし、さらに幹に付いている部分を同じように剥がして、それを台になるまで曲木やヘギなどを芯にして形を作り、張り付けていきます。

 張り付ける接着剤はニカワです。およそ80度から120度ほどで熱したカンの中に入れ、張り付ける部分の全面に塗り、少し乾いてから台となる生地に熱したコテで押さえながら張り付けていきます。

 張り付けた桜の皮の表面を最初にサメの皮を板に張り付けたヤスリでこそぎ落とし、さらにトクサ(植物)の乾燥したものでなぞり、最後にツヤを出すために布で丁寧に磨きます。

 工程は単純ですが、最も作品としての出来映えに関わるのは、張り付ける前の皮を包丁で丹念になぞる時で、ほぼミリ単位で10分の1ほどはぎ取っていく時に、皮の表面からは見分けられなかった色ツヤが出たところでこそぎ取る作業を止める技術です。もう一度包丁を当ててしまうと、色合いが違ってしまうからです。

 単純な作業工程ではありますが、この見分けの善し悪しが、最終的にその細工物の良否に関わることになるのです。

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  ■ 3.樺細工と藩政時代  
 

(上 作者不明 「鮫皮胴乱」 / 下 作者不明 「白鳥皮二段印籠」)
(上 作者不明 「鮫皮胴乱」 / 下 作者不明 「白鳥皮二段印籠」)

 樺細工の製品は、藩政時代には印籠が一般的で、飾り物やタバコ入れなどは少なかったようです。この時代は武士の製作に関わるものが多く、なかには、桜の樹皮を張らずにサメの皮を張ったものも見られます。それには、桜の皮の部分に道具であるサメの皮を張ったらどんな「気色」(けしき)になるのだろうという遊び心が見えるし、サメの皮がごく初期から、道具として使われてきたことの証明でもあります。

 印籠は武士の携帯必需品で、この形状やデザインなどを武士たちが競っていたということもあり、樺細工の技法を誇ったものとして、個人で使ったものが現在まで残されています。すべて使用した跡が残っており、練り薬のこびりついたものや丸薬がひっついたものもあります。飾り物ではなく実用の「道具」として、個々の武士がいわば手すさび≠ニして造っていたことがうかがえます。

 藩政時代、藩主が江戸へ参勤交代で出府する際、藩の特産品を自慢することがならわしで、広間に座って大名たちが自分の領地のものを持って集まりそれを売り込む、という図式が出来上がっていました。いわば、現代でいうトップセールスだったかも知れないし、ある意味ではアンテナショップの役割を藩主が率先して行っていたといえるでしょう。

 佐竹のお殿様が樺細工を持っていったのは間違いありません。ただ、いつ頃からこのような場所に持ち込めるような細工のいいものが出来たのか記録はありませんが、1805年(文化2)江戸の鳥越家より樺細工の注文が来た、と北家御日記に記されています。この時は、あまりに見苦しき品にて、と断ったようですから、まだ武士の手すさび程度から脱していなかったと思われます。本格的に注文が舞い込むのは、それから9年後、1814年(文政11)3月、津軽のお殿様からの注文が白岩焼きとともに入ってきて、10月に納品したと記されています。

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  ■ 4.樺細工と文明開化  
 

(左 作者不明「蕗模様胴乱」 / 右 小野東三・作 「あめ皮下げ巻き胴乱」)
(左 作者不明「蕗模様胴乱」 / 右 小野東三・作 「あめ皮下げ巻き胴乱」)

 明治に入ると武士という職業がなくなって、武士でも自分で仕事をしなければならなくなり、それまで趣味的に覚えてきた樺細工を職業とする人が出てきました。職業として造るとなれば、それを売りさばいてくれる商人も必要になります。

 角館の特産品として「樺細工」が他の地域で造られたものよりも、販路や知名度が高いのは、この製品を専門に売りさばいてくれる人や店が出来たからです。明治期から樺細工を継続して扱っている店が今でも残されています。

 商品としての樺細工は、印籠のようなものはすでに売れなくなってきていました。工夫したのは印籠が3段とか4段重ねの工法でしたが、これを蓋の部分だけ残してあとは段をつけなければ煙草胴乱になります。当時の煙草は「刻み」といってキセルの頭の部分に詰め込んで火をつけるものでしたから、この胴乱にキセルを入れる筒を加えれば、大きく工法を変えなくても製品ができたのです。これらの一部は藩政時代から使っていたものが、明治に入っての主力商品となりました。

 さらに箱型のものに皮を張り、表面に模様を施したりする「箱もの」というジャンルも明治半ばには完成、また、火鉢の外側やタンスのような家具に張る製品も出てきます。この当時、国内勧業博覧会という名で、今でいう見本市が開かれていました。樺細工を扱う商人たちは、競ったようにこれらの博覧会に出品し全国に販路を広げていったのです。

 この時期の「がんばり」が、新しいデザインやジャンルを生み出し、角館の樺細工を全国的な手工芸品と言われるまでに成長させたのです。

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  ■ 5.樺細工と昭和そして現代  
 

(左 田口芳郎・作 「霜降皮角形小筥」 / 右 荒川慶一・作 「二度皮十段茶筒」)
(左 田口芳郎・作 「霜降皮角形小筥」 / 右 荒川慶一・作 「二度皮十段茶筒」)

 昭和に入って、樺細工の職人たちも戦争に徴発される人が多くなりました。このことは樺細工に限らず、手工芸の仕事の人たちを急速に少なくしてしまったのです。

 昭和のはじめ、柳宗悦という人が、日本の手工芸の職人たちが少なくなって、このジャンルが衰えることを憂えて、自宅を開放して全国の職人たちに技術伝承の講座を開き新しい人の育成を試みました。

 1943年(昭和18)当時、北方文化連盟という団体を通して、樺細工の技術保存の講習会を開きたいと、職人の選定を依頼する柳さんからの連絡が入りました。

 この時期、若手で戦争に徴発されていなかった3人の職人を候補として、東京の柳邸に佐藤省一郎、田口芳郎、菅原二郎を送りました。その後、現在も健在で樺細工に関わっている小柳金太郎さんや当時の樺細工の重鎮だった小野東三も柳邸の工房に招かれ、陶芸の濱田庄司や染紙作家の芹沢_介、板画の棟方志功などと交流を深め、樺細工の向かう方向を多様化させる契機になりました。

 昭和10年代になって煙草胴乱の主力製品は、煙草の紙巻き普及で急速に衰えたのを機に、それまで副次的に造られていた茶筒が主力に上りました。煙草胴乱が扁平の型に張り付けたのを円形の筒状に仕上げれば茶筒に転用できます。ここにも印籠製作以降の工法のバリエーションで製品を確保してきた伝統が残されているのです。

 戦後、ジャンルが急速に拡大した中に、アクセサリー類があります。漆工芸の製品からのヒントもあったのですが、桜の皮に接着剤のニカワを塗って何枚も重ね合わせ、ドウハンという圧縮機で押しつぶすと断面がきれいにシマ状になり、これを球形や板状に切り取って磨くとブローチや男物のネクタイピンなどに加工できます。このようなデザインのアイディアは、戦中の柳邸の講習で学んだ結果が表れたものです。

 1970年(昭和45)当時の通産省が手工芸の産業品を指定する制度をつくりました。伝統的工芸品産業です。指定の条件は産地形成ができていること、職人が多く後継者の心配がないことなどです。樺細工はそれから3年後、秋田県内では最初の指定を受けました。

 どうも因果めくのですが、その時に申請に使った資料が、戦中、柳邸で樺細工の後継者がいなくなることを憂えて、当時の職人たちから聞き書きしたものと実際の作業工程を記録したものの書籍だったのです。

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